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雨と微笑みと

 金曜日の夜から降り始めた雨は、今朝になっても止むことはなかった。

 起きぬけの、南側の窓からカーテンを開けて空を睨むと、空一面に煙を充たした様な雲が拡がり、銀色の斜線は相も変わらず絶える事なく降りそそいでいる。

「……まだ、降ってる?」

 少し遅れて目を醒ました彼女が、背中から気だるそうに声を投げた。俺は「ああ」と短く返すと、キッチンへと向かい、ヤカンを火にかけながらコーヒーの瓶を探す。
 これといって、予定の無い週末だから、雨だろうが晴れだろうが、別段問題は無い。いや、寧ろ先週の疲れを若干身の内に残してしまった俺としては、雨である方が都合が良かったりするのだ。

「これじゃ、何処にも出掛けられないわね」
「ああ、雨だからな」

 そう、雨だから仕方がない。雨だから、いつもの公園も、オープンカフェも、街でウィンドウショッピングも今日は無理。行動派の彼女には申し訳ないが、今日は一日中のんびりと過ごしていようと思う。
 ごろりとソファーに仰向けに寝転び、四折りにした新聞に目を細める。すると、その傍らでテレビをボンヤリと眺めていた彼女が、鳴るのを忘れていた目覚まし時計の様に声を上げた。

「ねぇ、昼過ぎには上がるって!」
「何が?」
「雨よ、雨!」

 テレビには今日の天気図が映り、ナレーションが淡々と首都圏の天気を告げている。

「あてにならないな…… 真に受けるなよ?」

 事実、最近の天気予報は当たった試しがなく、今週は二度も鞄に入れっぱなしにしてあった折り畳み傘に助けられた。

「あ、いけないんだ?後ろ向きな考え方は!」
「無駄に前ばっか見てると転ぶぞ?」

 そうだ、たまには足元を見据えて、己の立つ位置を確かめる事も大切なのだ。
 だから、今日はのんびり。

 しかし彼女にはそんな、俺の深い趣きは理解し難いらしく、納得のいかない様子で「じゃあ、本当に晴れたらどうするのよ?」と口を尖らせる。

「そうだな、二番街の洋服屋で何か買ってやるよ」
「ふふっ、いいわねぇ…… その話、のった!」

 彼女はそう言うと、満面の笑みを浮かべながら、身支度を整える為にクローゼットの在る寝室へと消えた。

 あまり張り切るなよ、どうせ今日は一日中雨だ。

 ところが、だ。

 どうした事か、昼過ぎに雨は上がった。予報通り、晴れた訳ではないものの、とりあえず雨は上がったのだ。

「ほらっ! 見て見て? 雨が上がったわ!さあ、出掛けるわよ?」

 カーテンを勢い良く開けながら、得意気に声をあげ 「約束は覚えているわよね?」と彼女が笑う。やれやれと溜め息を漏らしながら、促されるままに窓辺に立つと、雨は止んでこそいるものの、今朝の様相のままの灰色が空一面に拡がっていた。

「ああ、これはまた降るぞ?」

 たしなめる様な物言いに機嫌を損ねたのか、彼女は声を鋭く「予報が当たったのよ! 雨は止んだじゃない!」と踵を返す。

「いや、しかしだな……」
「もういい! 一人で出掛けるから!」

 そう言い置いて玄関へと向かう背中を、俺は再び溜め息を漏らしながら、ただ見送った。一度言い出したら聞かないのだ、ことに彼女の場合は。




 それから間もなくして、俺の予想は当たってしまった。雨が止んでも消えることのなかった雨雲からは、再び斜めの雨粒が溢れ始め、ものの数分も経たないうちに元通りの景色が窓に映り始めた。
 
 さて、彼女が戻ったら、どの様に笑ってやろうか。

 悪戯に、少々意地悪く、そんな子供染みた事を考えながら玄関に目をやると、不意にシューズボックスの傍らに立掛けてある、彼女の水色の傘が視界に入る。

 あのバカ……

 まあ、晴れると信じて出掛けたのだ、考えられない事もないが。しかし、見切り発車にも程があるというものだ。それに、今は梅雨時だぞ……

 心の中で、ありったけの文句を並べながら、水色の傘に手を差し延べる。そして、玄関のドアを開けると、彼女が向かいそうな場所を頭に思い浮かべながら、雨の街へと靴先を向けた。

 大通りの中程、小さなカフェの窓際に彼女は居た。
 手元には、出先で買ったと思われる本が開かれているが、窓の外へ視線を外しているのは、買ってはみたものの大して面白くも無かったのだろう。
 店の入り口から、彼女の座る席へ。
 こちらに気が付いて、一瞬双眸を丸くする彼女に傘を差し出しながら「もしかしたら、待ってた?」と少し微笑んでみせる。

「ええ、雨が止むのをね……」

 バツが悪そうに、しかしそれほどでも無い様に反らした視線の先には、相変わらずの雨が午後の街を淡く煙らせていた。


 こうして、結局いつも通り、街を二人でふらふらと歩く羽目になってしまった。
 カフェから家までの道のりを……
 いや、少しだけ遠回りをした。
 別に、大した理由は無い。
 ただ、彼女が、俺が水色の傘しか持って来なかった事に、少しだけ嬉しそうな顔をしたから……

「ねえ、たまにはいいよね? こういうのもさ」
「よくない。ちゃんと二本、傘を持って来るべきだった」

 一本の傘の軸を挟んで、彼女が笑い、俺が顔をしかめる。
 しかし、実のところ、それほど悪い気はしないのだ。
 彼女が喜ぶなら、それはそれで良いと思うし、寄り添いながら歩くから、濡れた右肩もそれほど気にはならない。


 雨は相変わらず降り続いている。
 だが、二人が家に着くそれまでの間なら……

 それも、悪くはないと思うのだ。


おしまい

挿絵を書いて頂いた
メガネ猫さんのサイトです

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